あいむあらいぶ

東京の中堅Sierを退職して1年。美術展と映画にがっつりはまり、丸一日かけて長文書くのが日課になってます・・・

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今年こそ人生を変える?ミニマリストになれば幸せになれるのか考えてみた

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かるび(@karub_imalive)です。

新年早々、こんな記事を見ました。

去年の秋にはてなにブログ開設してから、はてなには「ミニマリスト」系の記事がかなり多いなーという印象がありました。「片付け」でもなく「断捨離」でもなく、なぜミニマリストだけが目立つのか不思議でしたが、2014年頃から有力なミニマリストがはてなブログで発信してて、そこに人が集まってきてるということなんでしょうね。

ということで色々Youtubeやブログを見たけど

いや、これは自分には無理ですわ(T_T)
Googleで試しに「ミニマリスト」で画像検索をして頂くとわかりますが、ミニマリストの自宅は、とにかくモノがない。ビジネスホテルの部屋並の簡素さだったり、それさえも突き抜けて、本当にこれ人住んでるの?って思う位の空き部屋のような空間・・・。
 
物欲が多い自分には、これは無理だと早々に断念。
正直、まだまだ欲しい物がいっぱいあります。

ミニマリストってなんで反発に遭うのだろう

はてなブログ内では、大物ブロガーを中心に、どちらかというとネガティブ寄りのエントリが多いですね。それも全部読んでみました。結果、ミニマリスト自身により書かれたこの記事が一番腑に落ちました。

この記事では、ミニマリストの生き方=合理的な生き方、と冒頭で結論づけた上で、ミニマリスト生活の生み出す弊害について書かれています。

まとめると、

ミニマリストは、最小でシンプルであることに「執着」しがち。執着はやがてエスカレートし、モノを減らすことに全力になってしまう。
・ライフスタイルをシンプルにする=「幸福」と勘違いしてしまい、そこに自分の優越性を見出し、そうでない人と区別してしまう。
・または、ミニマリスト的なライフスタイルが、単に節約生活の延長線上にあるノウハウに矮小化されてしまっている。

これらから、一般人から見ると奇異なほどモノがない空間で幸せそうに生活し、排他性や宗教性を帯びた特殊集団に見えがちになります。得体のしれないものへの一種の恐怖感に似た感情なども相まって、反発を生んでいるのだろうなと感じました。

ミニマリストの起源って・・・

ところで、ミニマリストの最初の成り立ちって、どこにあるんでしょう?Webで調べても、これ!という情報が今ひとつつかめなかったので、勝手に起源を予測します。

これは、一旦物に囲まれた生活をガンガン体験した結果、消耗しちゃって、「いくら物を所有しても幸せになれないよ」って気づいた人たちだったんだと思うんです。(この「物」を「金」と言い換えてもいいかも)

それじゃあ、何をすれば幸せになれるんでしょう?

物があっても幸せになれないんだったら、全部物をなくせば幸せになれるんじゃない?っていう仮説から始まったんだろうなぁと。

「モノ」に執着しても究極の幸せはつかめない

人間は、モノや信条、地位など、絶えず何かに自分の拠り所を見つけ、それに自己同一化し、アイデンティティや自我を保ち、幸せを追い求める性質があります。これが健全なレベルであれば、「個性」として認められ、それは「価値」の源泉となるわけです。

ただ、例えば「依存症」という言葉があるように、そういった自己同一化によるアイデンティティの保全は、すぐに「何かへの執着」へと 変質し易いのです。時に行き過ぎるのですね。

そして、一方でこの執着は、非常にあてにならないものでもあります。
というのは、この世界は万物が絶えまなく変化する世界だからです。そんな流転する世界に住んでいる我々は、依存しようとする対象が、いかにあっけなく自分の望まないものに変化したり、消えてなくなってしまうことを日々経験しています。

情報やモノが溢れ帰り、環境変化のサイクルが高速化している今、私たちはその自己同一化し、幸福を追求するプロセスに疲れてしまった。(だからこそ「瞑想」とか「運動」とか推奨されているわけですが)

いくらモノや地位に執着しても全てが高速で変化する世界に住んでいる我々は、その自己同一化する対象が永続するものではないので、長続きする平安を得ることができないんです。

そこで解決策としてのミニマリズム登場

そこでアンチテーゼとして出てきたのがこの「ミニマリズム」と言う考え方であろうかと。物や地位など移ろいやすいものに自分を重ね合わせても、幸せはするっと逃げていく。

それならば、執着への対象の一番わかりやすい象徴である【モノ】を一切捨てよう。そして、強制的に執着する対象をなくすことで自分を空っぽにしつつ、変わりゆく世界の一瞬を体験することに価値を置いたらどうですか、という考え方。

それは、一種禅や瞑想の目指す世界と同じだろうと思うんです。ゼロになることで、心の平安を再確認する。それは、我々の心のなかに最初からあるもの。

モノへの執着を全部手放し、自分の心にスペースができたら、そのスペースからにじみ出てくる自分の中の平安や幸せを実感しつつ、変化そのものに逆らわず、一瞬一瞬を楽しめるようにしよう。これこそがミニマリストが究極的に欲している状態なのだと思います。

ファッションとしてのミニマリズムは、単に執着の対象が「捨てること」とそこに優越性を感じる自分へと移動しただけ

これに対して、一過性の流行りものとして「モノを捨てる」行動を取っている場合、「ミニマリスト」になった、あるいは「断捨離」に成功した自分自身に、無意識に自己同一化しているだけなんですね。未だに執着しているんです。

すると、捨てても捨てても心の平安はやって来ない。そこで、ものを捨てる幸せな自分>>>捨てられない不幸なみんなという線引をし、「ミニマリスト」としての「すごい自分」への新たな執着が始まってしまう。

それは、執着の対象がモノから【ミニマリスト】としての自己イメージに単に変わっただけなんだと思うんです。うわべだけでは何も解決していなかった・・・。

中途半端なミニマリストは、この構造を見透かされてしまうので、突っ込まれてしまうんでしょうね。結局ミニマリストって単に流行ものでしょ、、、幸せそうにしてるけど、結局優越感に浸ってるだけじゃん、みたいな。事件を起こした新興宗教が、構成員のエゴを満たすだけの危ない集団だったのと同じような目線で見られちゃうのです。

ファッションでやるなら、やめたほうがいい。どうせ生きている限り何かへの執着はなくせないものだし、自分のエゴに素直になってモノをガンガン追い求めたほうが、まだ素直で健全でしょう?あるいは、永平寺でも入って本質をもっと突き詰めろよ!というのが大方の有名ブロガーさんの有力な対案だったかと思います。

個人的なミニマリズムへの向き合い方

とは言え、かるびはミニマリストや断捨離の根本的な考え方は良いと思います。極端な生き方の中にも学ぶべき点は必ずある。

それは、シンプルに生きることで、幸せに近づけるということ。

家の中にモノが乱雑に散らかっているとやっぱり心は乱れますから(笑)実際、ここ2,3年ほど、定期的に物を捨ててきて、まだまだ家の中は汚いままではあるけれど、昔よりかなり落ち着いた家の中にはなってきました。これに伴い、心も確実に落ち着いてきたのを自分の中で実感として感じています。

けれど、根本的にはミニマリストにはなれそうもないです。なぜなら、欲しいものがいっぱいあるから(笑)あれもこれもほしい。体験したいという気持ちは、どうにも抑えることはできないし、現時点では、抑えないほうが良いと考えています。

「物欲は肯定するけれど、執着は極力なくして、一瞬一瞬の体験を意識的に楽しむ」

これを、ミニマリスト的な学びを取り入れた自分の今年のスタンスにしたいと思います。

結論

興味があるなら、ミニマリスト的なライフスタイルを試してみて、自分にフィットするかどうかで決めたらいいのではないかと思います。いい、悪いではなく、自分にとって実用的なのか、そうでないのか。

たとえ、ファッションとして取り入れても、他人に価値観を押し付けなければOKかと。一定の学びは必ず残りますから。

ただ、ミニマリストにしてもマキシマリストにしても、このモノが溢れかえった便利で安定した社会基盤の中でこそ取れるスタンスなので、豊かな物質生活を送れることそれ自体に感謝せんとなぁと思います。

それではまた。

かるび