(ソクラテス/Wikipediaより)
かるび(@karub_imalive)です。
ソクラテスの「無知の知」って知ってますか?
有名な格言ですよね。
今日取り上げる『「無知」の技法 不確実な世界を生き抜くための思考改革』は、いわゆるソクラテスが残した名言、「無知の知」を実践した際にもたらされる効用や、その有用性について、あらゆる科学的な見地から分析し、わかりやすく語り尽くした本です。
日本では、2015年11月と、少し前に出版されました。ネット上でもわりと評判が良かったので、すでに手にした人も多いのではないかなと思います。このたび、ようやく僕も読了したのですが、非常に良かったため、書評にどうしても書きたくなりました。おすすめです。
私たちは「知っている」ことが価値があるとされる知識社会に生きている
さて、私達は、知識偏重社会に生きています。学校や職場、コミュニティなどあらゆる場面で専門知識の有無が私達のステータスを決定します。知識があるとみなされるだけで、尊敬され、評判を得られ、影響力を保持できるわけです。
そして、知識の格差は、そのまま経済格差につながります。一般的に、学歴が高ければ高いほど良い就業機会と高収入を得られるチャンスが増大します。
僕も読みましたが、2016年春に上梓された新書のベストセラー橘玲「言ってはいけない」では、現代の知識社会における経済格差の根源を「知能」の差である、と赤裸々に分析して話題を呼びました。
逆に、周りから「知識がない」「知性がない」と思われることは、無教養で、未成熟である、と一段低く見られることも多いです。だから、私たちは必死で勉強して、知識を詰め込み、周りには「物事を何でも知っている」ことを装います。
本当は知らなくて、自信がなかったとしても、立場上、それを「知らない」とは言えないような機会も実際に多々あります。
例えば、先日の参院選で、元SPEEDの今井絵理子が当選者インタビューの際に沖縄問題について池上彰氏から質問された際「それについてはこれから勉強します」と回答しました。
彼女自体、まだ新人候補であり、選挙の作法に慣れていないため、知らないものは知らない、という素朴な態度でしたが、これを誠実さ・謙虚さよりも、「バカな奴」「非常識な奴」ととらえる評価のほうが優勢でした。
このように、私達の社会では、物事を「知っている」ことをアピールしないと、リーダーシップを取り、周りの信頼を勝ち取ることが難しいのかもしれません。あやふやなアイデアしかない人よりは、知識・知性を備え、確固たる信念を持っている(かのように見える)人に、私たちは信頼感を抱きやすいのです。
でも、実は知っているようで知らないことのほうが多い
でも、よくよく考えてみると、不確実性に支配された激動の21世紀を生きる私達にとって、確実にこれは「知っている」といえることよりも、「知らない」「よくわからない」ことのほうが遥かに多いのではないでしょうか?
本当は、知らないことばかりなのに、何でも「知っている」わかったふりをして、意思決定を行ったり物事を分析したりするのは実に不健全なことです。そういう時、我々はいとも簡単に間違えてしまいます。
余計な自負心やプライドが、創造的な思考を曇らせ、自由で斬新なアイデアを眠らせてしまったり、健全で前向きな人間関係の構築を大きく妨げてしまうのですね。
あるいは、知識が多すぎる際にも同様な問題は起きます。物事を知り尽くしてしまったゆえに、定型的なやり方にこだわり、新しい可能性に目を向けられなくなる。
皆さんもそんな経験、ないでしょうか?
知らないのに、無理して知っているふりをして、かえって物事がこじれたり、おかしくなってしまったようなことが。僕は、特に20代の若い時、結構ありました。
なんでも知っているという立場を捨てよう
本書は、こうした「自分は何でも知っている」という立場を捨てよう、とまず推奨しています。代わりに、あえて自分は「無知である」という立場で物事を始め、余計な自負やこだわりをゼロにしてまっさらなスタンスで取り組むことで、逆説的に最善の結果を生み出し得ることが多々あるのだ、と結論づけます。
不確実な時代には、「知らない」ことからスタートするという状態を楽しみ、心をゼロにしたところから立ち上る創造性を大事にして即興性やセレンディピティを大切にする。そのための、実践的なアプローチをいくつも紹介しています。
そして、この「無知の技法」に沿って大きく業績を残した何人ものケースを丹念に追い、実例としてまとめています。
学者、実業家、芸術家、教師、いろいろな立場の人たちが、様々な問題や課題が発生した際に、あえてそこで「自分は何も知らない」というまっさらな状態から始めたことによって、状況が好転し、問題があざやかに解決していったいくつもの事例を丁寧に見ていきながら、読者の意識改革を促します。
知らないということをシンプルに認めることで状況が好転する
知らない、という事は恥ずかしいことでも何でもなくて、当たり前のこと。でもエゴがそれを覆い隠してしまい、我々は人々の前に立つと、いろいろなしがらみ、どう思われるのか?という恐怖から、つい何でも「知っている」という立場で物事やコミュニケーションを始めてしまう。
そうではなく、まず一旦、自分は知らないんだということを受け入れ、認めよう、ということです。これにより、余計なエゴが落ちて、目が見開かれるのです。ゼロベースで物事を分析・観察することで、そこから手探りではあるけれど、オリジナルで最善な試行錯誤での手探りでの活動が始まるのです。
たとえば、本書で示される一例として、何らかの組織で、チームリーダーとして未知の課題にあたる場合を挙げておきます。
知らない、ということを認める事は、自分は弱い存在である、もろい存在であるということを、チームメンバーに自ら進んで開示してしまうことでもあります。それは、場合によってはチームメンバーから一時的にでも自信のなさとして受け取られることもありますが、それと同時に自己開示によって仲間からの信頼を勝ち取ることも多いのです。また、部下の自立心を育て、チーム全体の能力を開花させる効果もあるのです。
知りたいという思い自体は持ち続けてOK
では、何も知らなくても良くて、勉強しなくてもいいのか?というと、そうではないのです。本書で言っているのはそういうことではありません。
知ること・知識を求めること、それ自体は悪いことではないのですよね。知りたい、というのは多分人間の持っている根源的な欲求。それを抑える必要はないのです。
ただ、何かを始める時に、その知識や、それに裏打ちされた過剰な自負心を捨て去るだけでいい。これまで培った経験や知恵を捨てろ、という意味ではなく、それらの既存の知識が新鮮な視点やアイデアをふせぐカベにしてはならないのだ、ということですね。
まとめ
僕の最近の読書では、漠然とした一つの問いを立てながら読んでいます。それは、「不確実性が支配するこの時代、人生をどう生きるべきなのか」ということです。大げさですが、要するに「この先どう生きたらいいのか指針をくれ!」ということです。
別エントリーでも挙げましたが、僕は、現在41歳にして無職生活に突入して2ヶ月目を迎えています。(2016年7月現在)先立つものや確固とした考えもあまりなく、勢いで会社を退職してみました。将来のキャリアプランや確固たる生き方の指針なども当然ありません。
だから、これから人生の後半生を生きていくため、何らかの指針が欲しくて、その答えのヒントを「読書」に求めています。そんな僕にとって、シンプルながら、この「無知の技法」は学ぶところが非常に大きかった良書でした。
不確実性を全面的に受け入れ、心をゼロにしてそこから立ち上るセレンディピティや創造性を信頼してみる。本書で示されるこの「無知の技法」は、非常に汎用的で、あらゆる読者がこの書から得られるものがあると思います。
2500年以上前に生きた古代ギリシャのソクラテス以来、常に言われているシンプルなメソッドですが、シンプルであるがゆえに、立場、条件、環境、時代を選ばずあありとあらゆる局面で普遍的に活用できるのです。
でも、多分一番大事な事はそれを習慣として定着させること。本を読んだ直後はわかった気がしていますが、シンプルなことだからこそ、日常の瑣末な出来事に追われる中で忘れてしまいがちです。
そういう時は、この本をそっと本棚から取り出して、ランダムにペラペラめくるようにしたい。そういう意味で、長く自分の手元に置いておきたい本でもあります。訳出もスムーズで非常に読みやすかったです。本当におすすめです!
それではまた。
かるび